『日清カップヌードル』なんと外国で『Cup Noodles』 アメリカ学生寮の定番スープになるまで

1: 2022/01/10(月) 19:20:37.66 ● BE:645525842-2BP(2000)
■日本市場とは異なる販売戦略が奏功

アメリカの学生寮でも定番の食べ物になっているという日本生まれの「カップヌードル」。開発から、アメリカ進出の歴史までメディア「カンバセーション」にオレゴン大学の日本文学、カルチュラル・スタディーズ、ジェンダーを専門とするアリサ・フリードマン教授が寄稿している。

《2006年12月、東京の店舗に並べられたカップヌードル Photo: Andy Rain / Bloomberg / Getty Images》
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■文化の交錯を物語る存在

コンビニエンス・ストアでカップヌードルの容器を見ると、大学寮や安くて簡単な食事を思い出すかもしれない。

だが、この象徴的なパッケージがコスモポリタニズムを表していた時代があった。この簡単に持ち運べる食べ物は、アメリカのテイストが加わった日本の大量生産食品という可能性を象徴していたのだ。

カップヌードル(Cup Noodles)は、1971年9月18日に翻訳ミスのため「S」が省かれた英語名(Cup Noodle)で発売された。白、赤、金色のカップからフォークで直接食べる携帯用インスタントラーメンだ。

私は、アメリカと日本の間で商品がどのように移動し、その過程で生まれる新たな慣習を研究している。
カップヌードルは私にとって、文化の交錯を物語るものであり、その太平洋を越えた旅は、第二次世界大戦後の日本がアメリカをどのように見ていたかを示している。

(>>2以降へ)

日清のカップヌードルがアメリカで「学生寮の定番の食べ物」になるまで
https://courrier.jp/news/archives/273513/
2022.1.10 KODANSHA Alisa Freedman

2: 2022/01/10(月) 19:21:02.35 BE:645525842-2BP(1000)
■安藤百福のひらめき

これは日本で広く語られている話だが、カップヌードルは、インスタントラーメンを発明したのと同じ人物、1948年に日清食品を設立した安藤百福が生み出した。

安藤は日本統治時代の台湾で生まれ、1933年に大阪に移った。戦禍で荒廃した日本で、安藤は闇市の屋台に並び、丼によそわれた安価なラーメンを求めて並ぶ人々の姿を目の当たりにした。麺は、アメリカからパンを作るために提供された小麦粉で作られていた。パンは腹持ちはするが、日本の食生活ではそれほど一般的ではなかったのだ。

安藤は家庭で手軽に食べられる麺を作りたいと思い、自宅の裏庭に建てた小屋で実験を行った。

《2008年4月、「第6回 世界ラーメンサミット大阪」で行われた安藤百福翁像除幕式
Photo: Junko Kimura / Getty Images》
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たくさんの失敗を経た後、1958年にひらめきがあった。妻の仁子が天ぷらを揚げているのを見て、油で水分が飛んでいることに気付いた。

揚げて乾燥させた麺を茹でれば、再び水分を吸う。調味パウダーや乾燥した具材を加えれば、味の組み合わせは無限に広がる。安藤が最初に選んだのはチキン味だった。チキンスープはコクがあり、栄養価が高く、アメリカ的、というイメージがあったからだ。

「チキンラーメン」は、当時のうどん1杯の6倍の値段だったため、なかなか投資家が集まらなかった。そこで、安藤は試食会を開いて一般の人に直接商品を紹介することにした。その結果、チキンラーメンは、戦後の日本で最も普及した食品の一つとなった。

しかし、1960年代半ばになるとチキンラーメンや、1964年に発売されたインスタント・スパゲティの「スパゲニー」などの派生商品は、市場が飽和したこともあって、日本での販売が減少。安藤はインスタントラーメンの新たな市場を求めて、アメリカに進出することにした。

当時のアメリカでは、牛肉と野菜を鍋で調理したすき焼きなどの日本食が、異国情緒を感じさせながらも一般的なアメリカ人の口に合うということで流行していた。安藤は、インスタントラーメンにも同じことができると考えた。

1966年、安藤はチキンラーメンの宣伝のために渡米。そこで、アメリカ人が鍋で作って丼に盛り付けるのではなく、乾麺のパックを割ってカップに入れ熱湯を注いだことに驚いた。

帰国した安藤は、このアメリカの調理法にヒントを得て、日本で売れる商品を作ろうと考えた。

3: 2022/01/10(月) 19:21:30.45 BE:645525842-2BP(1000)
■新しい食べ方の普及

試行錯誤の末、日清のチームは、中央に置いた乾麺の周囲に発泡スチロールのカップを巻き付ける方法を考案した。麺の上には異なった風味を載せ、よりおいしく仕上がり、満腹感を得られるような見た目にした。蓋は、安藤が太平洋を横断する機上で食べたマカダミアナッツの容器からヒントを得て容器からはがせるようになっていた。

大阪万博のロゴマークを制作した大高猛は、容器のデザインが国際的で最先端のものになるよう、小さな日本語の上に赤いサイケデリックなフォントの大きな英語の文字と、高価なディナープレートをイメージした金色の縁飾りを配置した。カップヌードルは、袋版と同じくらいの量の麺が入っていたが、製造コストがかかったため価格は4倍になった。この価格のために、カップヌードルはぜいたく品のようになった。

しかし、日本では歩きながら食べることは失礼にあたる。立っていれば箸を使って食べるのも難しい。そこで、日清は食べ方を変えることにした。プラスチック製の小さなフォークを付けたのだ。

日清は、カップヌードルの普及と食べ方を教えるため、日本各地で試食会を開いた。最も成功したのは、1971年11月21日、東京・銀座で行われた試食販売。日本で最もファッショナブルな通りである「歩行者天国」を歩く若い世代をターゲットにしたもので、4時間で2万食以上のカップヌードルが売れた。

また、自衛隊などの移動が多い業種にも売り込んだ。人質がとられた「浅間山荘事件」の際には、警察官がカップヌードルを食べて暖を取る様子が報道されたことで、カップヌードルは意図せずしてメディアに取り上げられることになった。

■「おしゃれ」から戦後日本の象徴に

カップヌードルは、冷蔵庫やテレビなどの家電製品やテイクアウト食品などの例に見られるように、便利さと快適さがより良い生活をもたらすという戦後の日本で支配的だった信念を象徴するような存在になった。

日本初のコンビニエンスストアは1969年にオープンし、カップヌードルの主要な販売場所となった。さらに、日清は1971年7月20日、歩行者天国にその4ヵ月前にオープンした日本初のマクドナルドの前で「銀座カップヌードル」のイベントを行った。1971年11月には、日本経済新聞社の東京本社の近くにカップヌードル販売機が設置され、日本で初めて自動販売で売られた食べ物の一つになった。

その後、製造工程が改善されて価格が下がり、インスタントラーメンは経済的に不安定な人々の定番の食べ物になった。

-----カップヌードルの公式ツイッター-----

「カップヌードルは混ぜるとウマイ」そんな都市伝説が商品になりました。カップヌードルの味が合体した「スーパー合体シリーズ」、来週9/13に店頭に降臨!絶対全部食べてくれよな!#スーパー合体シリーズ
― カップヌードル (@cupnoodle_jp) September 6, 2021

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8: 2022/01/10(月) 19:23:49.66 ID:u9n+rjgV0
>>3
ドラゴンボールみたいなフォント

85: 2022/01/10(月) 20:35:42.41 ID:3T+PzJmK0
>>3
「とんそ」のフォントのうんこ感よ
ミンコツで良かっただろw

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Source: メシニュース
『日清カップヌードル』なんと外国で『Cup Noodles』 アメリカ学生寮の定番スープになるまで

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